2021/09/10
最近巷では”親ガチャ”なる言葉が流行っているらしい。子どもはどんな親の元に生まれるか選べないということを、ネットゲームのガチャになぞらえてそういうらしい。
この親ガチャだが多様な意味合いで使われているようで、「金銭停な裕福さについて」や「身長や容姿など遺伝的要素について」「毒親や虐待など親の在り方について」など様々だ。
要は、「生まれる環境を選べない」ということ全体を指している言葉なのだと思う。
親ガチャに対しては、テレビやネットで活躍している複数の著名人がSNSやブログなどで反応したことでYahooニュースにも取り上げられていた。
私は親ガチャなる言葉が盛り上がっていることをYahooニュースで知って驚いた。親ガチャの意味するところはすぐに分かったし、別にそれを不謹慎とも思わなかった。何に驚いたのかといえば、「こんな当たり前なことに今更新しい名称がつけられてネットで盛り上がるなんて!?」と思ったからである。
自分の生まれる環境を選べないなんてことは遥か昔から変わらないことで、何をいまさらと思ったのである。
選べないのは親だけではない、生まれる国や時代も選べない。
もしかしたら、生まれる前にみんな選んでいるけどその記憶を誰も残していないというファンタジーなこともあるが、そういった記憶が誰にもない限りただの仮説でしかない。
そんな当たり前のことがなぜわざわざ今更取り上げられて騒がれているのか。
それが不思議でならなかった。
昔から変わらないことがなぜ今騒がれているのか。それは、生まれる環境によって人生がより大きく左右されるようになったからだと思う。端的に言えば、個人の努力では覆せないほど環境の差が大きくなってしまった、格差ができてしまったということだ。
身分制度があった時は、生まれで自分の人生が決まるということは当たり前だっただろうが、その後身分制度がなくなり、個々人の努力である程度成り上がれる時代が戦後にあっただろう。
しかし現代は経済的な格差がどんどん広がっている。そして世代を跨いで格差が連鎖・拡大している。生まれる環境の差はそのまま人生の差となり、逆転ができなくなってきてしまっている。
そんな現実を投影したのが、”親ガチャ”という言葉なのかもしれない。
ネットの言葉を見る限り親ガチャは、自分の生まれを嘆く文脈で使われているように感じる。それに対して、「育ててもらっただけでも、感謝すべき」と言うような反親ガチャ派の発言で、さらに燃え上がるような展開になっていると思う。
「格差社会」という使い古された言葉よりも、「生まれてくる子どもの不平等」つまり「機会の不平等」という意味で親ガチャという言葉が使われているなら、興味深い動きだと思う。
それと同時に、もし親ガチャという言葉が自分の生まれを嘆くだけの言葉ならとても無駄な動きだと思う。
私自身が気を付けていることとして、「変えられないことは考えない」ということだ。
自分の生まれる環境なんて自分で選ぶことができない。いくらTwitterで親ガチャを嘆いても何も変わらない。変わらないことを考えていても、現実では何も変わらない。それこそ無駄ってものだ。
そんなことを私に強く感じさせてくれた言葉がある。
キリスト教で使われるニーバーの祈りである。私にグッと来たのは一部ではあるが、それを下記に記す。
"""
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。
"""
この言葉は良い。とても本質をとらえている。
世の中には、2つしかない。自分にできることと、どうしようもないこと。
例えば、あなたが好きな人がいて片思いをしていたとしよう。あなたは、相手にどうやってアプローチするか、告白するかなどはあなた自身が決められる。しかし、告白されてそれを受けるかどうかは相手にしか決められず、あなたにはどうしようもない。もちろん、告白が成功するための行動はあなたが好きに決められるが、最後に実際どう判断するかは相手にしか決められない。
自分ができることには必死で取り組み、自分にはどうしようもないことは静かに受け入れるしかない。そして、我々にとって重要なのは自分にできることとそうでないことを見極めることだ。ここを見極め間違えると、無益な悩みが増えてしまう。
私は、自分に変えられないことは積極的な諦めだと思っている。世の中には諦めるべき適切なことがあるのだ。人間関係の悩みなんて大抵、自分では変えられないことを悩んでいる。
もし出口のない悩みを抱えている人がいたら、それは本当に自分にどうにかできることなのかを考えると良いと思う。